【事件激情】その男、K。─秋葉原通り魔事件 #04
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2010年7月27日公判の加藤智大の両親の証言、被告人質問の結果を反映した「改」バージョン#04はこちら >
「格差が出ることが悪いとは思わない」
──小泉純一郎 党首討論にて
デモン・シード
2002年、
──岐阜県坂祝町。
「さかほぎ」と読む。
加藤智大ことKの入学した中日本自動車短大。
イタリア国立のフェラーリ専門学校と提携して、フェラーリに乗ったりいじったりできるのがウリ。
いちおう短大ではあるが、事実上は専門学校。クルマの整備士になるしフェラーリ乗れるしな的な若いのが全国からやってくる。
だから進学校卒のK@18歳〜20歳は異色の存在。すぐ「成績優秀」になれた。
バイク部に入って、ツーリングとかでまずまずキャンパスライフをエンジョイしてたらしい。
ところが、
「加藤。おまえ、出席日数が足りんぞ。講習ずいぶんサボったろう」
「はあ、そうですか?」
「呑気に構えてる場合じゃない。このままだと、2級整備士の実技、免除にならんぞ」
「はあ…」
「試験の成績だけよくても、これじゃなあ」
「あ、いいです。整備士にはならないですし」
「は?」
整備士になるための学校なのに、ここに何しに来たんだ?
「ならないって、じゃ、どうするんだ?」
「先生になりたいんです。中学校の先生に」
「は?」
「だから地元の弘前大学に編入できればいいなと」
先生は唖然である。弘前大学なんておまえ、ここより20も偏差値が上だろ。というか中学の先生になるのにウチの授業ぜんぜん関係ないぞ。ふざけてんのか。それとも隠れて猛勉強してきたのか?
そんなわきゃもなく、
2003年3月、
結局、K@20歳は、整備士資格すら取ることなく、ただ漫然と短大を卒業。Kよりぜんぜん優秀でなかった同級生たちは整備士資格を手にそれぞれきっちり就職していった。
進路希望先に「弘前大学、希望」と書いたが、どのみち無理な話だ。
それからK@20歳〜の行き当たりばったり生活が始まる。
そんな彼はまったく知りもしなかったが、
“雲の上”では日本社会の仕組みを根っこから変貌させる、ある事件が起きていた。
「財界総理」とも畏怖される大企業ロビー団体・経団連の会長&トヨタ自動車会長&経済財政諮問会議メンバー・奥田碩の、「グローバル時代の競争のためにも、柔軟な雇用体制を」という要求に従い、
“聖域なき構造改革”を謳う新自由主義追従者の首相、小泉純一郎は「労働者派遣法改正」を打ち出す。2003年6月6日、自民党、公明党、保守党の賛成で参院強行可決。
この法改正には、
遅効性の猛毒入りの種子が埋め込まれていた。
毒のある花
2003年7月、
──宮城県仙台市。
独眼竜政宗の君臨した奥州の街で、
Kは警備員の派遣会社でアルバイトになっていた。
Kは中学までは勉強できたので、基本的な作業能力はまあまあ高い。「真面目で仕事できるヤツ」と思われ、正社員に昇格。警備員の配置とか派遣する側の仕事を任されるようになる。
収入と身分もそこそこ安定したKは、
この頃、秋葉原に行くようになった。ゲームソフトを買ったり売ったりするためだ。ホコ天も体験した。
この頃、秋葉原はパソコンやオーディオ、電器部品を売る電気街から、アニメ、ゲーム、同人誌のオタクの聖地アキバへと変わりつつあった。
さて、
Kが秋葉原にいそいそ通っていた頃──、
前年に芽吹いた毒々しい花がついに咲いた。
2004年3月1日、
改正労働者派遣法施行。
のち格差社会の元凶として怨嗟の的となる、
「製造業への派遣解禁」である。
これまで禁止だった製造ラインへの派遣労働が、経団連の思惑通りに合法となった。
その毒素は社会を少しずつ少しずつ、徐々に根っこを蝕み、腐らせ、破壊し始めた。
ちなみに──、
製造業への派遣解禁で、人材派遣業界はこの世の春。
人材派遣業界の年間総売上げ。
2005年…4兆351億円、前年比41%増。
2006年…5兆4189億円、前年比34.3%増。
その急増した利益はもちろん、企業に直接雇われていれば、労働者自身が手にしていたはずのものだ。
のちに経団連の御用政治家たちは、ご褒美にあずかった。
小泉純一郎は自民党が野党に転落する前に政界を引退。元経団連総帥、奥田碩の設立したシンクタンクの顧問におさまった。
また小泉の片腕として構造改革を主導した竹中平蔵は、
間違えた、竹中平蔵は、
あんまし変わらんか、まあとにかく平蔵は、
政界引退後、人材派遣大手パソナ、パソナグループの特別顧問を経て、
2009年、パソナグループ会長職という報酬を手に入れた。
が、それはまた別の話。
2005年2月──、
K@22歳は、せっかく正社員になった仙台の警備会社をとつぜん辞めてしまった。
退職の理由は、
「自動車関係の仕事を希望しているので」
これからKは入っちゃ辞め入っちゃ辞めをくり返し、東日本のあっちこっちを流浪の民することになる。
音楽エリートの卵たち
夢と希望に満ちあふれてキャンパスに立っていた。
やっと来たね!
念願の東京藝大に合格したんである。もちろん現役で。
取手キャンパスにある音楽環境創造科は1学年20人しかいない。少数精鋭のエリート学生たち。
忙しい毎日が始まった。音創で求められるレベルは高いのだ。
とまあ、クラシック、和洋ポップス、民族音楽、BGM、さらに映像、演劇や舞踏舞踊、パフォーマンス、アートなど多様な文化芸術の知識、コラボの実践、音響録音技術、空間設計、文化環境づくり──森羅万象あらゆる分野におよんだ。
そんな忙しい中で、音環1年生の有志で音楽ユニットradicalcarbon(ラディカルカーボン)を結成。
もちろんマイキーがそのダイナモとなって張り切っていたのは高校時代と同じだ。
マイキーは芸大でも優秀でありつつ庶民的な空気をそのまま変わらず持ち続けた。だから内外に友だちも自然と増えていった。
慌ただしいながら充実した毎日を送る彼女は、やがて音楽学部の別の科で学ぶ「コーちゃん」先輩と出会った。
おれ仕事辞めましたシリーズ2nd
その頃、K@22歳は、埼玉にいた。
“自動車関係の仕事”をしていたんである。
2005年、
──埼玉県上尾市。
上尾市のキャラ、アッピーだよ
人材派遣大手・日研総業に登録。日産ディーゼル上尾工場で派遣労働者。
仕事内容は、トラック組み立てラインの部品取付け。
日研総業の手配した“社宅”と工場を行き来する毎日だ。
社宅といっても日研の借りた賃貸マンションだ。3LDKの部屋だが、派遣3人で住んで6畳間3つを個室として使う。家賃数万円はしっかり天引きされた。その金額は相部屋になっても同額とられ、あげく派遣契約が切れると、「会社の借りてるものだから」と即刻退去を命じられた。
K@22〜23歳、奮発して手に入れた自慢の愛車を乗り回すのが唯一の気晴らし。500万以上するスポーツカーで、派遣労働で寮暮らしの身にはいかにも“分不相応”だった。
ケータイの掲示板サイトにハマり始めたのもこの頃。
初めはロムッて読むだけだったけれども、思い切って自分でもカキコするようになった。
それに返答が返ってくるのに驚いた。
おれを相手にしてくれる人たちがいる!
ろくに会話もない日常には、新鮮でうれしかった。
書き始めたら止まらなくなった。
日々の鬱憤や自分の不満たらたらな境遇、悩みをカキコで吐き出した。
慰めの言葉や「こうしたら?」という助言のカキコがあった。
みんな優しかった。温かい慰めの言葉をくれる女性もいた。
(こうやってれば、おれを大切に思ってくれる女と知り合えて、けけけけ結婚できるかもしれない)
Kはそんな希望の光にますます萌えたいや燃えた。ますますケータイ掲示板にのめり込んだ。
が、
翌2006年4月、
それまで真面目に出勤していたK@23歳は、とつぜん無断欠勤する。それきり連絡も取れず。
行方を絶ったまま、Kの派遣契約を解除、クビになった。
おれ仕事辞めましたシリーズ3rdとおれ失恋物語
2006年5月、
──茨城県常総市。
常総の誇り、豊田城
Kは1か月も経たないうちに次の職を見つけていた。さいわい景気はまあまあよくて職探しには困らない。
でも、なぜかあるのは派遣の募集ばかりだったけれども。
あれ? いつからこんな風になったんだっけ?
今度の職場は住宅建材メーカーの工場。
組み立て作業担当。もちろん派遣。半年契約だった。
例によって勤務態度は真面目、無遅刻無欠勤。
最初のうちはいつもこうなんである。
が、
2006年8月、夏休み。
Kは「青森に1週間くらい帰ります」と告げて出発したまま、それきり連絡が途絶えた。
行方不明状態のまま、しかたなく派遣会社は契約解除した。
今度はたった3か月しか保たなかった。
これでKの「仕事やめた」は3社目になった。
「なんでちゃんと定職に就けないんだろう」
とKは悶々としていた。
まあそれはキミが毎回唐突にバックれてるからだよだが、さすがに社会に出てから4年目になり、自分でも不安になってきたらしい。
そんな頃、もはや肉体の一部とすら化しているケータイの出会い系サイトで、ある女性と知り合う。
メール交換するうち、Kは例によって恵まれない可哀想なおれです話をさらけ出すと、相手は心配してくれた。
Kはすっかり舞い上がる。
「こここここここの子と付き合って、ももももしかして結婚してしまうかも」
服着ろよ
中学生並の妄想力だが、Kは本気と書いてマジと読む。
「彼女の有無」が人生の絶対的指標になってきている。
ところが、
花嫁候補から「顔写メ見せて」というおねだりに、Kが自分の顔写真をメールすると、
アドレスも変えられてそれっきり。
なんでなんでだ?!
あんなに優しかったのに!
おれを好きなはずだったのに!←妄想
あんなに仲良くなれたのに顔だけで速攻ダメなんて!
よほどおれは不細工なんだな。ああそうだそうに違いない。
報道でさんざんっぱら顔が出てるが、
加藤智大は冴えないオタク顔ではあるけれど、決して造作は本人のくどくどくどくどこだわるほど不細工じゃない。
でも、当人は不細工ゆえ非モテ説に取り憑かれていた。
不細工だからダメなんだ、女はイケメンじゃないと好きにならないってことか。そうかそうなんだ。
おれは不細工だからモテないんだ。
勉強、音楽、ライブ、バイトに絶賛リア充中
2006年11月、
──東京都。
東京藝大は新たに千住キャンパスを増設、マイキーの音創科も移転。前の取手より都心に近くなった。
マイキー@19歳。ただいま大学2年生。
かつてのボーイッシュな秀才少女は、もはやあのマイキー人形なんて出せないくらいの、長身の魅力的な女性になっていた。
それでも持ち前の溌剌とした性格はやっぱり変わらない。よく勉強してよく動きよく楽しんだ。
それにバイトにもいそしんだ。「音楽で忙しい」と金銭面をぜんぶ親に頼り切りな子が多い中、マイキーはできるだけ自分でなんとかしようと決めていた。なんとゆーか立派と言うしかない。
作曲も演奏もマイキーはやめなかった。むしろ前より精力的に取り組んだ。ユニットもどんどん組んでライブも精力的に出た。才能ある音楽家の卵たちと親しくなって、友だちの輪もどんどん広がった。
今夜は、別の大学のオカリナ&トランペット奏者とコラボしたライブ。マイキーの担当はシンセ。
ライブは好評だった。楽しかった。
コーちゃん先輩も見に来てくれた。うれしい。
マイキーは、輝いている。
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▼2008.06.08
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