【事件激情】その男、K。─秋葉原通り魔事件 #05

#01 #04
  
    「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
         ──犯行3日前 ケータイ掲示板への書込み
  


  

派遣王、参上

  
2006年も終わりに近づき、師匠も走りますぜなんていう頃、
世間はまた揺れていた。
  
大企業は「史上最高益」「好景気」なんてほくほく顔だが、世の中さっぱりそんな実感がなく。なんか給料は減ってるし──。
  
奥田碩から経団連会長の座を引継いだのは、キヤノンなぜャが大文字の御手洗冨士夫だ。

これまで経団連の会長には“日本を代表する”重厚長大産業から選ばれる慣例で、
キヤノンのような軽工業からというのは珍しかったんだが、そのとき儲かってた企業がトヨタキヤノンくらいだったから、まあそういうことになった。
  
御手洗冨士夫は創業者一族系の経営者だ。
中央大学に通いつつ法曹界を目指したが司法試験に不合格
叔父さんが創業者として君臨するキヤノンに拾われて入社。
  
すでに跡取り息子の従兄弟がいて、MIT卒にしてスタンフォード大卒の超ビフテキ優秀大賞な御曹司だった。
対して冨士夫はなんだか肩幅が狭いし文系でつぶしもきかなかったしでアメリカに20年も行かされたりしていた。
  
が、社長就任たった2年で従兄弟が急死
急きょキヤノン社長の座が転がり込んでくる。

御手洗はその悪代官顔から想像するとーりの、傲岸かつ冷酷な経営者だった。
海外赴任でかじってきた南蛮渡来のキャッシュフロー成果主義(自分が思いっきり縁故なのはここだけの内緒だ)をいち早く取り入れ、
社員の福利厚生諸手当「無駄だ」とどしどし廃止して、選択と集中とうたってどしどし新規事業を切りまくった。
文系の御手洗には技術のことなんてよく知らないし、とくに愛着もないしで、ためらいもなかった。そして技術畑で有能だった故叔父や故従兄弟へのまーほれいろいろとあるんだなそのへんはなあ。


キヤノン電子の名物廊下、時は金なり。社員用のイスもないなり
  
キヤノンは製造業派遣解禁の恩恵にも最速最大に浴した。
大分では雇用増を願う県に57億円補助金を出させたうえにフタを開けば雇ったのは非正規ばかり(そしてとっとと派遣切りした)
青森の弘前工場では7割非正規といういびつっぷりだった。
社員の待遇を削りに削る一方で、“グローバル時代にふさわしく”自分たち役員の報酬を2倍の2億円超えに大増額したり、豪華保養施設をつくったり。


働く側はあえいだが、大儲けで御手洗は鼻高々だった。
  
前任の奥田は政治献金と大企業の影響力をうまく駆使して小泉内閣を牛耳った。
御手洗もそれにならって政治介入を狙った。小泉の次の首相・安倍晋三に超接近。

安倍晋三は祖父が岸信介、大叔父が佐藤栄作、父親が安倍プリンス晋太郎、妻昭恵森永製菓創業者一族で元電通と、そろい踏みのきらきら御曹司で。選挙区は自民の牙城長州藩サラブレッドといえば晋三だよなというくらいだったが、北朝鮮コワモテポーズのみで首相にまでなっちゃったため若すぎていまいち貫禄も基盤も弱かった。
だから喜んで越後屋のいや御手洗のスリ寄りを受けた。
安倍のインド行きにも経営者衆をわさわさ引き連れて同行するべったりぶりだった。
  
製造業派遣の解禁に気をよくした経団連は、その後も、消費税増税法人税減税、派遣の期間規制撤廃、移民規制の緩和、外国人株保有制限の撤廃(御手洗とくに希望)偽装請負の合法化(御手洗とくに希望)、武器禁輸の緩和など、強欲資本主義な政策を続々と要求していくことになるが、
  
中でも注目されたのが、
  
労働規制適用免除法案こと、
ホワイトカラーエグゼンプション
  
でもいまや別のもっと端的な名前でしかみんな覚えていないだろう。
  
残業代ゼロ法案である。

経団連が、“残業代ナシ”の対象となる「相当程度高い年収」「400万円」と要望してたことからしても、
何を目論んでいたかがどんなお人好しでも分かるほど言うまでもない。
  
さらにアメリカ政府も「グローバル化のためにも一刻も早くこれを導入しろ」と日本政府にせっついていた。なんでホワイトハウスがそんなことせっつくかというと日本経済に投資中のファンドにせっつかれてるからだった。
  
が、
  
すでに世間の目は、小泉─奥田ラインが栄華を誇った時代とは変わっていた。
  
構造改革なるウソ八百に騙されコケにされていたことに有権者が気づきつつあって、
そこに絶妙のタイミングで現われた残業代ゼロ法案は、あまりにもその意図が分かりやすすぎた。
  

ホワイトカラーエいや残業代ゼロ法案は、空気を読むのに敏なマスメディアから「過労死促進法案」とも猛バッシングされ、打たれ弱い安倍内閣はたちまち腰くだけになった。
  

実は反対派の工作員かってくらい逆効果発言が多いおばさん
  
2007年の初めには、経団連にせっつかれた政府は「家族だんらん法」と言い換えをはかったり、対象を「年収900万円以上」「企画とか5職種だけ」にしてみたり、いろいろこねくり回したものの、今さら反発が止むわけもなし、あっさり立ち消えに。御手洗の策謀は潰えた。
  
さて、
のちに御手洗は、
キヤノングループ偽装請負が問題化したときも、
「法律が悪い、法律を変えろ」
と逆ギレしたり、
  

  
派遣切りを盛大にやって、
「派遣切りは派遣会社のやったことで、キヤノンに一切責任はない」
という名言を放ったりするが、
  
御手洗に限らず、日本の経済人に共通の思考が定着していった。
「いざとなりゃ派遣を切りゃいい平気平気(* ̄∀ ̄)」
  
もちろん奥田のトヨタ、そしてその系列各社でも。
  
安易に若い世代へとひずみをしわ寄せして既得権を貪れるだけ貪り、若者を「やる気がない」「甘え」「自己責任」と逆に嘲笑い責め立てさらに追い詰める風潮が強まって──。
  

さて、そんな騒動を知ってたかどうか知らないが、


2006年の秋頃から、は郷里の青森に戻っていた。
  

帰ってきた・おれ仕事やめました

  
「地元にいたくなかった」から青森を出たのに、愛車のローンやらで借金がかさんだのか、また実家暮らしになったわけだ。
  
茨城の仕事をバックれたあと、一念発起したのか自動車学校に通い、大型自動者免許を手に入れていた。瞬発力はあるんである。

そして青森では学校給食の牛乳配送ドライバーに。2トントラックを転がす毎日である。もともと運転は嫌いじゃないから嫌いじゃない仕事だった。

勤務態度は真面目。無遅刻無欠勤。まあ例によって。
最初はバイトだったけれども、4月には正社員に昇格する。まあ例によって。
  

さて、実家はが出た頃とは少しばかり状況が変わっていた。
  
K弟がいないではないか。
  
K弟はKが青森から出るのと同じ年に弘前高校に合格したものの、やっぱり兄とほぼ似た堕落コースをたどった。
  
夏には早くも不登校、たった3か月で中退。とりあえず卒業できた兄よりもさらにヘタレだった。
中退と引き換えにK母の強い望みで青森高校編入試験を受けるがもちろん合格できるわけもない。
その後、5年間ひきこもって

が帰郷する前に、実家を出て上京していた。
  
さすがにK母は悟ったのか、K弟に、
「おまえたちがこうなってしまったのは、自分のせいだ
と謝った。K弟K母とひとまず和解した。


だがK母は、長男のと歩み寄ることなく。ただ避け合った。
も家では口もきかず自室にこもって過ごした。
  
はあんな高校生活でも、卒業後も連絡を取り合う友だちもいた。とくに親しいのは小学校からの同級生で高校まで一緒の幼なじみだった。
幼なじみはもちろんより上等な社会人生活をしていたが、友情は健在で励ましのメールを送り続けた。青森に戻ってきてからはまた会うようにもなった。

この頃、自慢の愛車がスポーツカーからに変わっている。

      ▽

友だちには「死のうと思って高速道路に突っ込んでつぶした」と言っているが、たぶんそれはかっこつけの嘘で、ローンが払えなくなって手放したんだろう。
  
のケータイ掲示板への傾倒はますます激しく、生活の欠かせない一部になっていた。

掲示板で知り合った相手をマブダチ認定し、青森から相手の住む福岡まで車で会いに行ったりしている。
  
そうして掲示板経由で知り合った一人に、群馬県に住んでる上州ギャルがいた。

上州ギャルのカキコしてた掲示板に、がカキコしてからやりとりするようになった。
「寂しい」とか「不細工」とかまたもやネガティブなことばかり書いて不幸アピールするに、
上州ギャルは「かまってチャンか」と思いながらも、まあ基本いい人なんだろう、悩み相談に乗ったり乗られたりしていた。
  
なんだかんだいって、という男は、まったくの孤独でも女っ気ゼロなわけでもなく、それなりに出逢いがあるんである。
わりと聞き上手(無口ともいうが)だし、不器用ながらけっこう毎度つかみはオッケーだったりするんだが…。
  
んだが…。
  

善良なる人々

  
タペストリーは綴られ、織り上げられ──、
  
同じ年4月、関東に住む2人の少年が大学生になった。
  

カズ──

カズ@18歳は、小学校から柔道教室、高校も柔道部。頼りがいがあって優しくて友情に厚いやつ、と周りの誰もが思っていた。
全寮制の高校を卒業して、東京情報大に入学した。埼玉の実家に戻って、2時間半かけて千葉にあるキャンパスに通学した。
 
カズは戸籍上だけ母方のじいさんの養子になっていた。
じいさんは公認会計士だが娘しかいないため、男子として跡を継がせたかったからだ。
なんだか武士みたいだが、カズもまたちゃんと自覚してて、常日頃周りに「学校卒業したら跡を継ぐんだ」と、東京電機大を進学先に選んだのも情報処理の技術を学ぶつもりだった。友だちによく言っていた。
「今に日本を背負って立つ人になりたい」
じいさんも孫の人柄を愛し、跡取りとして期待をかけていた。
  

カズには大学でよくつるんだツレが2人いた。その縁で別大学のタカと知り合ってすぐ意気投合。よく大学生4人組で遊ぶようになった。
  

タカ──

タカ@18歳の少年時代は試練の連続だった。
生まれたときから肺に持病を抱えて、誕生直後に死にかけたほどで、薬で肺を膨らませてようやく助かった。
  
タカはPCやゲームが好きで、高校も理系コース。課外活動はコンピューター部。一方、ハンドボールでも運動系活動。
肺の持病に悩まされつつ、それでも真面目に通学して、3年間で欠席は2日だけだった。

ところが大学の受験直前にまたまたピンチが襲う。肺の調子を崩し、手術しなければならなくなったんである。

それでも手術は無事成功、そのすぐあとの受験もさいわいうまくいって、晴れて東京情報大学に通うことになった。
  
タカの父親、今どき珍しい昭和の一徹親父という風情。父親からすれば、今どきの若者然として、なんだか頼りないと思うし、腹が立つこともある。なんだそのだらしない服は、なんでズボンを腰で履くんだ、と思うときもあった。

しかし生まれたときにあやうく死にかけてやっと拾った命だ。
少々出来がどうでも生きてくれればいい。
  
生きていればそれで。
  


シェフ──

この年4月から、シェフ@32歳日清医療食品の嘱託職員として、厚木市のリハビリ病院に勤務することになった。患者の食事をつくる仕事だ。
  
シェフはずっと料理人を目指していた。それも食を極めた料理人として。
調理学校に通って勉強。さらに高校専修学校にも通って、食物や料理をさらに深掘りして卒業、高卒資格を取る。

さらにさらに栄養士の資格を取るため、栄養専門学校にも通って卒業。とにかく料理のことにどん欲な勉強家だった。そのかいあって決まった新しい職場は、料理や栄養の専門知識も活かせてやりがいがある。
  
もう一つ、シェフが好きなのがパソコン

自分でプログラムを組むくらい詳しくてマニアだった。
  
だから休みの日にはよく、秋葉原へと出かけた。
   
 

津軽恋女

  
青森──、ねぶた祭りがもうすぐって頃。
  
世間は、コムスングッドウィル騒動でかしましかった。

こんな感じの特殊な髪型のジュリアナ東京仕掛人が介護を食い物にした日雇い派遣を食い物にしたデータ費100円ってなんだとバッシングされていた。ちなみにこの特殊な髪型の人は経団連理事だった。
  

郷里に戻って給食運搬ドライバーとして地道に働くにも、ちょこちょこ仲間が出来ていた。
  
とくに気にかけてくれたのが、20歳くらい年上の居酒屋店主
BSEこと狂牛病で店がやばいので、昼はのいる会社で配送のバイトをして、夜は居酒屋をやってハードな毎日のタフネスなおっさんだった。
おっさんは内気っぽいを弟分認定したらしく、店での飲み会に誘った。集まるのはいわゆる“負け組”ぞろい。

似たような境遇の仲間に気を許したのか、はやっぱり不幸アピールを始めた。
おっさんに「おまえ甘いぞ、みんな苦労してるんだ」と説教されて号泣した夜もあった。
  
なんか青春していた。
   

さてそんなことも影響したんだろうか、
はまた彼女ゲットに意欲燃やすようになる。なりに。
  
群馬の上州ギャルではない。別の女である。なかなか隅に置けないんである。
  
その彼女とはケータイの出会い系サイトで知り合った。

さいわいサクラのネカマではなかった。メールでやりとり。は頑張って絵文字をたくさん入れてせっせと送った。そのへん妙にマメだった。

彼女は3つ年下の22歳、
やがて彼女も青森に住んでると分かって、「会いたい」希望。
@津軽恋女とオフで顔合わせすることになる。
  
は初対面だというのに、よれよれのチノパンとシャツ、髪はくせ毛はかまわないままで女から見るとやる気あんのかだが本人は心ひそかにメラメラしていた。それを悟られまいと無表情になってて余計ヘンだった。
  
「カトウ…トモヒロ…さん?」

ヒロと読んだ@津軽恋女に、は大喜び。

「珍しいな、1回で読めた人は!」コノ子ハオレヲ好キニ違イナイ
「じゃ、トモって呼んでいいですか?」
「………」あまりのことに思考停止
「え、あの」馴れ馴れしすぎたかな?
「あ、いいから、なんて呼んでも、うん、いいよ」
   
は愛車の軽に@津軽恋女を乗せた。いちおうUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみをさりげに並べて、と。よしカンペキ、女の子はディズニーとか好きだしな。

トモ積みすぎだよ
  

CDもラジオもかけず、かといってもしゃべんないから車内は無音である。
  
  
しーん。
  

  

  
  
「……あの…この車、ずっと乗ってるんですか?」
「ん、前はスポーツカーだったけど、事故起こした」
「あ、そうなんだー」
  

  
  

  

  
「今度、GT-R
「は、はい?」わ、びっくりした
「買いたい、GT-R、今度」
「ああ、うん」
「と思って」
「そうかあ、うん」
  
  
「…うん…」

  
  

  
  
しーーーーーん。
  
  
さいわい2人にはゲーム好き、という共有分野があった。

トモ小さいよこれ

2人がデートすると、大抵はゲーセンでUFOキャッチャー。カラオケも行った。はニッチ杉るアニソン入れて熱唱した。
  
  
8月1日
浅虫温泉の夏の名物、花火大会が今年も開かれた。

花火を見にやって来た見物客たちの中に、“トモ”@津軽恋女の姿があった。
花火をケータイの動画で撮ったり、屋台でいろいろ買って食べたり。「トモ」って呼ばれて「ん?」って振り向いたり。ものすごくまっとうなデート状態。
  

  
今夜のは、ちょっとだけ、輝いていた。
  
  

その8日後──、
  
海の向こうでずっと軋みつつも正常をとり繕っていたトランプの城がついに瘴気を撒き散らしながら崩れていった。
  
サブプライムローン問題。
  
全世界的な市場暴落の連鎖が始まった。
   
当初、影響小と思われた日本もまたその荒波に呑み込まれていく。
経済も、企業も、そこらの人々も、
  
そしても。
  
  

▽2007.08.01


▼2008.06.08
  
【つづく】> #06 「何か世の中の役に立ちたい」
  
【事件激情】