【事件激情】その男、K。─秋葉原通り魔事件 #02

#01
   
2010年7月27日公判の加藤智大の両親の証言、被告人質問の結果を反映した「改」バージョン#02こちら

  
「私はこの事件を一般化して理解してほしくありません」
      ──公判の証言台に立った被害女性の言葉
  

「時間です」
  
と勝ち組どもへの最終宣告のつもりでカキコした、
なのに、
加藤智大ことK@25歳はいまだ2tトラックをうろうろ走らせている。
  
神田明神通りを東へと走ってソフマップ本館のある交差点に差しかかる。
ここでそのまま右折してホコ天のど真ん中に突っ込んで、幸せそうな顔してるカップルをはねてはねてはねまくるつもりだった。
  
でも──うわ、人が多すぎる。
その人波に怖じ気づいて、つい大人しく赤信号でブレーキを踏んで停まり、信号が変わるのを待って秋葉原UDXの前を通過した。
  
なに交通規則守ってるんだおれは。
  

もう一度だ。
  
山手線の高架前を右折して駅前のロータリーをぐるりと回って元来た道を戻る。それから今度は西向きに交差点に向かう。
  
よしっ。

  
でもまた交差点をそのまま通り過ぎた。
  
ああっ、また。
 
また戻って来るのに昌平橋通りや神田淡路町までぐるぐる回らなければならない。
くそう、なんてビビリなんだ、おれ。やるって決めたのに。宣言したのに。なんでやれない。
でも──ほっとしている自分もいた。
  
(なんした、なへやれないのトモヒロ!) 
  
ああ、嫌な声を思い出す。
うっせえすっ込んでろ、ババア。
  
(できないの?)

だまれだまれ!
  
(トモヒロ、ほんとダメ!ダメな子だ!さあ10秒数えるよ)
  
かぞえるな!かぞえるな!
  
(じゅう、きゅう、はち……)
  

──秋葉原昼12時24分。2008年6月8日。


最涯ての「10秒ルール」

  
1994年、

──青森県青森市
 
「…ろく、ごぉ、よん…」
母親が横で数を数えている。険しい目。険しい声。
  
K@11歳は口をぱくぱくさせる。怯えて焦れば焦るほど頭が真っ白。なんにも答えが浮かばない。
  
「にぃ、いち…、ぜろっ」

母親のビンタ炸裂。
痛さに泣きそうになるけど泣いてもどうせ許してもらえない。母親の気に入る答えを言うまで何度でも繰り返される。
  
それがの家の「10秒ルール」
   
の母親は教育ママ。
  
それもとかがつく教育ママ。
 
K母津軽半島の海沿いで育った。勉強がよくできて才媛の誉れ高き。青森市一の進学校、青高こと青森高校に進学。
この寒々とした海がいやだったのか、

K母、思い切って県外の国立大を受験。しかし運が悪かったか実力か、不合格。才媛、はじめての挫折。
   
世間では、あさま山荘事件で左翼系運動がトドメを刺され、ベトナム戦争も終わり、若者文化のメッカが、新宿からパルコの出来た渋谷に移ろうとしていた頃。
 
でも地方の青森で女子が浪人できるような環境はなく、K母はしぶしぶ地元の労働金庫に就職。
  
そこで出会ったのが3つ年下の同僚、のちのK父。以下略で2人は結婚。やがてK弟が生まれる。

K父も高卒で、学歴の壁を越えるべく、がむしゃらに働き、支店を束ねる管理職にまで出世した。頑張って一戸建ても買った。
  
そんな高卒夫婦。大卒への憧れは強かった。とくにK母が。執念。

「子どもたちは必ず大学へやるのよ!」

  
そうして一家の熱烈な「英才教育」が始まる。

学習塾、そろばん、スイミング。予定はびっしり。友だちの家に行くことも、もちろん家に呼ぶのも一切禁止。男女交際も禁止。見ていいテレビは、
ドラえもん


まんが日本昔ばなしだけ。
  
K@5歳弟@3歳が2人して、おじいちゃんおばあちゃんの家に逃げてきたことがあった。数キロはなれてる所までベソかきながら歩いて。

心配して車に乗せて家まで送ると、いかめしいツラで出てきたK父が幼い兄弟を睨みつけ、

「おばあちゃんの所に逃げても許されると思うなよ」
憎々しげに言い放った。
  
K母K父も同類だった。
  
「息子の教育に口は出さないでちょうだい」
K母は自分の親にも言った。
  
作文は提出する前に必ずK母検閲が入った。親が子どもの宿題を手伝う、というレベルではもちろんなく。
  
K母が気に入らなければ何度でも書き直し。
基準は「先生ウケするもの」(とK母が思うもの)
作文は消しゴム使用も許さない。1字でも間違えたらぜんぶ書き直し。何度でも何度でも書き直し。
  
さらに、「10秒ルール」があった。
  
作文をねっとり添削するK母がとつぜん訊く。
「この言葉を使った意図はなに?」
まあ子どもにそんなこと答えられない。すると、10秒のカウントダウンが始まる。
「先生ウケする答え」を言えないと、
  
10秒で、闘魂注入!

じゃない母親のビンタ!
答えが出せるまで10秒→ビンタ→10秒→ビンタ以下無限に続く。
 
K@小学生が真冬(しかも青森の)の雪積もる玄関先に薄着のまま閉め出され、何時間も震えながら立たされてることもあった。見かねたご近所さんが「もう許してやりな」と取りなしてもK母「お兄ちゃんはいけないことしたんだ」と頑として譲らず。
叱るときは両親が両方からガミガミ怒りまくった。逃げ場なし救いなし怒られっぱなしである。
 
その甲斐あって?K@小学生は一応成績はよかったし「先生ウケ」もよかった。

足が速くて元気で人気者。将棋クラブに陸上部。陸上では県大会まで行った。
  
たぶんピリピリした家なんかより学校の方がぜんぜん自由で楽しかったんだろう。
   
まあデキ杉くんな感じだから女子も熱視線。年賀状に「好きです」とか書いてくるませた女子もいた。
それを見たK母。すかさずぴしゃり。
「恋愛は許しませんからね!」
   
まあいくらなんでも鬱憤も溜まる。人気者の反面、怒ったらイスを投げつけようとしたり、先生と言い争いまでしたりしたから、まあパーフェクデキ杉くんってわけでもなかった。
  
小学校の卒業文集。
K@12歳は書いた。

「もっといろんなことをしとけばよかった」
「こうかい先にたたず」
  

中学生、なぜか空気化する優等生

   
K@中学生。成績は鬼特訓のおかげでトップ。それと学級委員も。
部活はソフトテニスで頑張った。短距離走でも頑張った。

合唱コンクール指揮者も頑張った。行事でも頑張った。

 
先生の印象。
「明るくて勉強にもスポーツにも行事にも打ち込む頑張り屋だった」
  
が、この頃の同級生からは、
印象がなかった」「存在がなかった」「大人しい普通の」「目立たない
  
おい、いきなり空気化してるぞ。人気者はどこへ消えた?
  
まさにK@中学生の行動は、K母の指示の下、先生ウケ狙い、内申書対策というわけだった。
  
この時期の写真に写るの顔にはすでに笑みがない。いつの間にか小学生の頃の無邪気な顔は消えていた。
   
じゃあ、この頃の一家の中身はどうだったかというと──

家族の食卓で、K母がなにか怒った。床に新聞を敷いて、K@中学生の皿のものをぶちまけた。
「そこで食べなさいっ」
父親もそれを横目に素知らぬふりで食べてるだけ。

泣きながらK@中学生は床の上の夕飯だった残骸を食べた。
  
はそんな家で育った。
  

それから4年遅れて──、遠く西方の国、
ある少女中学生として青春を送っていた。
  

東京育ちのオー!マイキー

  
1999年、

──東京都。
  
少女のあだ名はいつの頃からかマイキー
  
マイキーというと、浮かぶのはこれなんだが。

しかし彼女の人となりは聞けば聞くほどまさにこのイメージそのまんまなんである。じつは顔もけっこう似てる。いやまあこのマネキンは男の子だけど。
  
ついでに言うと、彼女の一家もまさにこんなイメージ。

  
いやマネキンみたいってことじゃなくてね。
  
マイキーパパ通信大手系列の管理職。親戚にも財務官僚がいたりのエリート一族。
セレブとか大金持ちとか表現されたこともあるけれど、一家は古き良き時代の中流の上くらいの位置づけだろう。大企業勤務とはいえサラリーマンパパだし、小学生まで住んでたのは社宅だし。
  
そして奇しくも、マイキーもまたソフトテニスだった。

ただしこちらは都大会準優勝の実力。
  
成績はずっと学年トップ級生徒会役員も経験。
  
というと、もそうだし、あのゴスロリ桃寿もそうだったじゃん、であるが、マイキーの方は裏表なく健全印である。
  
さらに中2のとき、各中学から1名ずつ選抜される短期留学生として渡米。サンフランシスコでホームステイを体験。

  
また音楽好き一家らしく、姉妹で小さな頃からエレクトーンコンクールの常連だったりもした。中3の夏には吹奏楽部にもゲスト参加

  
これ3人くらいの子じゃなくて、マイキー1人のやったことだ。
  
両親も、快活で賢くて素直な娘を愛し、伸び伸びと興味と才能を生かす子育てをした。
おかげで伸び伸びすくすく大きくなったマイキーは、やがて「音楽」に目覚めていく。
  

さて、
ここまで4年違いながら、2人の人生はじつに似た経路をたどる。
  
1998年。
K@15歳は、K母の鬼指導の賜物で、県立青森高校に入学。

そう、K母の母校にして県下一の名門伝統校である。
  
2002年。
マイキー@15歳は、東京都立日比谷高校に入学。

そう、都立随一の名門校である。
  
都内と地方とはちがえど、うわべはなんとなーく似たエリートコース。
でも母親100%監修と、今どき珍しいほどの理想的子育てをされたマイキーとは、その生育プロセスと中身がまったく違っていたんであるが──。
  
最涯てのK@15歳と、東京のマイキー@15歳。
4年差の時空を超えて、(うわべだけ)似た道を歩んできた2人の少年少女の人生街道は、高校入学を境に、まったく異なる方角へと分かれていく。
  
ちなみに青森高校こと青高(せいこう、と読む)の卒業生には、寺山書を捨てよ町へ出よう修司ピュリッツァー賞戦場カメラマン沢田教一がいる。もっと昔の旧制時代には人間失格もOB。まあ昔のOBが誰でも今のレベルには関係ないが念のため。
  
目論見通りに息子を自分の母校に合格させたK母は得意満面。
「おっほほほほ、青高よ! ええ、青高よ!」
と鼻高々だった。自分がはたせなかった大学進学の夢を息子がはたすんだから。今に見ていて!
  
だがK母はまだ気づいていない。

息子の優秀な成績は自分がすべて操ってしつらえたもので、

息子の実力ではないことに。
  

【つづく】 >#03 「酒鬼薔薇聖斗と同い年なんだよ」
  

【事件激情】