日比谷ルネサンス

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東京都立日比谷高校は伝統校で、
かつてダントツの東大合格率を誇り、進学校の最高峰だった。当然ながらOBには教科書に載ってるような政治家、財界人、高級官僚、学者に文化人に、ズラズラと輩出している。
  
1960年代半ばにはなんと東大合格194人。どんな人数だよ。
  
ところが、ある時期を境に、日比谷は没落低迷してしまう。
  
1967年、東京都教委学校群制度を始めたからである。
人呼んで「日比谷つぶし」
  
学校群は特定の都立高に優秀生徒が偏るのを平均させようと狙ったシステムで、生徒は本人の志望に関係なく、群の同カテゴリの学校へとぽいぽい自動的に振り分けられた。
  
が、お上の考える制度がうまくいった試しなんて有史以来一度たりとも、無い。
  
学校群のルールで本当の志望校に入れない生徒たち(とその親)の不満は役人たちのテキトーな予想以上に大きく、優秀生徒は他の都立へとまんべんなく広がるどころか、
都立そのものを嫌って国立や私立へと流れてしまった。
  
もちろん都立ぜんぶのレベルがそろってがくんと落ちた。
  
やがて東大合格率のシェアは、開成、麻布、桜蔭駒場東邦など私立にすっかり奪われてしまう。
(私立名門はたいてい中高一貫なので、例の「お受験」がかえって激しくなった)
  
喜んだのは漁父の利を得た私立学校法人だけ、という悪名高き学校群制度はようやく1982年に緩和、1994年には完全に廃止された。
  
が、とくに日比谷の凋落ぶりは見るも無惨で、一度落ちた学校力はなかなか戻らなかった。1993年には東大合格たった1人
  
しかも厄介なことに、過去の栄光に浸るばかりの保守な関係者がたくさんいて面倒くさい存在となっていた。
とくに教師陣もひどいありさまで、東大卒を鼻にかけて教員なのにいまだ研究者気取りで生徒をバカにしてたり、昼から校内で酒盛りして酔って授業したり、労働争議ばっかり熱を入れたり、そんなダメ教師たちが異動もなく十何年も居座っていた。
まさにダメだこりゃ。
  
が、
2001年、転機が訪れる。石原慎太郎都知事の肝煎りで始まった進学指導重点校日比谷高が選ばれたのである。
  
そこで一念発起して、全国初の自前の入試問題を作成。
  
さらに翌2002年に就任した新校長は、日比谷の校長には珍しく東大卒じゃない同志社卒で、
しかも廊下で生徒が焚き火をして警察沙汰になるような問題校離島の高校を回ってきた苦労人だった。
  
ろくに進路指導もしない放任主義(なぜか都教委の奨励で)だった校風を改め、抵抗勢力との激しい権力闘争も切り抜けつつ、
「公立高校としてエリート校の地位を取り戻す。めざせ東大合格2けたゲット
をスローガンに、一大改革に乗り出した。
  
のちに日比谷ルネサンスと呼ばれる改革の始まり始まり。
  

45分7コマ授業!
教員公募制で東大院卒とかどしどし採用!
3年分の綿密なシラバス(学習計画)!
1年生から徹底三者面談で生徒のすべてを把握!
生徒ごとに学力や勉強のクセまで徹底把握徹底指導
成績低下は放っとかず徹底テコ入れ
ほとんど予備校みたいなアップテンポの濃厚授業!
先生成果主義!生徒が先生評価!
予備校・塾に頼らず校内学習に重点!
校内居残り自習上等
夏期講座もたっぷり100講座
現役大学生の先輩たちが補習の講師に!
もし浪人しても予備校並に面倒見ます!
  
と大胆な改革をどんどん実行。
  
この経営努力が実を結んで、
偏差値は02年に急激上がって66.5、04年に70.1、07年に72.2とみるみる上昇。
05年に東大合格者は14人とついに念願の2ケタ達成。08年の東大合格者は29人となり、京大、阪大など国立上位早慶など難関私大への合格者もぐんと増え、
中高一貫は肌に合わないしやっぱり都立だとお金かからないしという優秀生徒もどんどん入学するようになり、
死に体だった都立名門は息を吹き返した。
  

さて、あやうくこれが【事件激情】なことを忘れかけていたが、えーと、そう、マイキーである。彼女の世界に戻る。