【事件激情】借りてきた「絶望」。──《壹》
今年に入ってから、石巻の“「のび太、おまえの指紋を包丁につけたからおまえが刺したことにしろよな」は頭悪すぎだろジャイアン”な“男としてダッセー”事件、そして、
豊川の30歳@人生半分引きこもり君の家族めった刺し事件、と派手にメディアを彩る大事件が連発した。
事件そのものは悲劇で、犠牲となった人たちのご冥福をお祈りします、なんだが、
犯人であるこやつらの内面にはちくとも興味もわかない。
ぺらっぺらに薄っぺらくて安すぎて。しかも前にどこかで見たぞデジャヴ感も満点で。
同じように栃木リンチ事件の警察官のドラ息子、遡れば名古屋アベック殺人や女子高生コンクリ殺人のあいつら、光市の魔界転生も同じだ。
事件そのものはやはり悲劇だが、犯人どもはぺらぺらに底の浅い幼稚で野蛮な空っぽの“悪党”ってだけだ。
いかにも「現代」という感じの騒がれかたをしてるが、実際似たようなバカ者はどの時代にも必ずいた。
DQNだって最近凶悪化したんじゃないし、ニートなんて分不相応な横文字つけられてるけど要は穀潰しどもだってたくさんいてやっぱりカッとなって家族を殺しまくっていた。周辺アイテムのインターネットやTVゲームが無かっただけで。
こんな奴らはこれからもきっと現れる。
まさにどうでもいい毛虫のような奴らだ。いやそんな風に例えたらさすがに怒るよな毛虫さんが。
こいつらの内面なんか覗いても視神経の浪費、時間の無駄な気がする。社会学者や犯罪心理学者もこいつらなんて別に研究しなくていいんじゃないか?
こんな安い奴らに人生終わらされて残念としか言いようがない。
ただ厳罰でのぞめ、という感想しかない。
秋葉原事件のあいつは、「彼女がいない」一点張りの非モテ根性は少しだけ気をになってそのへんはおいおい覗いてみようかって思わないでも無いけれど、やっぱりこいつもまたデジャヴ。事件そのものは悲劇だが、本人の脳内の大半はどうでもいい。
というわけでそのへんスルーして、佐世保のネバダたんに続いて改めて覗き回っているのが、
2003年と2005年に大阪と静岡の郊外で起きた、2つの事件だ。
▽とある郊外で起きた2つの事件
ちと昔に思えるけれども、上のいかにもなスペックを持つ毒虫どもや、“ムシャクシャした”が動機の瞬間湯沸かし器どもとは違う、“普通に見える人々”が犯人だっただけに、病巣はけっこう深く、今やさらに進行してあちこちを蝕んでる。んではないか、と思う。
それよりもなによりも、このところしばらく、その手の“普通の人々の異常なる”事件がめっきり起きていない。なんだか溜まったマグマが噴き出る嵐の前の静けさの気がしないでもないんである。
この2つの事件、佐世保のネバダと同じく、少年法の壁で情報が遮断され、やはりウェブ上に犯人たちの言葉が手がかりとして残されている。
そして今回は、佐世保とは逆のパターンで、彼らの凶気はともに外ではなく内──、家族へと向けられたんである。
Wikiなどに載る正式な名は、
河内長野市家族殺傷事件
伊豆の国市母親毒殺未遂事件
という。
ともに「借りものの絶望」が凶気を呼び寄せた。
前のネバダたんのときように取り憑かれてまた延々とならぬよう注意しつつ覗き見してみる。
なんでまたこの二つの事件は起きたのか?
またなんでまた家族だったのか?
【(貳)へ続く】